今日の箕面の空はどんよりと曇っていて天気予報そのままにどうやら雪が降りそうな感じ。今は雪が落ちてくる前の雲の中で雪がどんどん凝縮されて濃厚になっていっているようなそんな午後。
田舎に引っ越した友人の久々の帰阪に心がはやり、あれもこれもと行事を詰め込みすぎたか やんわりと 久しぶりのあなたと心ゆくまでゆっくり話したいとのお返事。なのでひとまず色んな案は脇に置いてひたすら何時間も友人と話す日を楽しみにしている。
小さい頃から、通知簿には必ず 落ち着きがない。と書かれていた。
家庭科で提出した物も、図工で提出した物も大体は アイデアはいいんだけど雑やな。とか途中まですごく良かったのに何で仕上がりが雑なの?と言われてきた。
そんな自分がこんなに時間の掛かる仕事を選んで何年もやっている、それを良しとしてやらせて貰えてるのは人よりもずっとずっと訓練しなければいけないからだろうな。と思う。
先日、珍しく分刻みに知り合いや友人とあって、打ち合わせだの相談に乗ったり乗って貰ったりだの、してきた。
その日の中で特に印象的だったのは 美しさについて。
美しさの基準は人それぞれで趣味嗜好も違うと誰かにとって美しい物は誰かにとったら全然興味がなかったり反対に汚く感じる物もあるだろう。
例えば、何百年も昔のボロボロの生地の中に例えようもない美しさを感じる人もいれば、ただのぼろきれにしか見えない人も。逆も又然りで、道端に転がる石を邪魔だなといって蹴る人もいれば、そこに美を見出して拾い上げる人もいる。
若い頃ダミアンハーストの初めての作品集の美しさに心を奪われたが、子供を持った今ではそこには美しさよりも変質、猟奇的な怖さを感じたり(もっともそこが意図するところなのかも、危険な物には必ずある種の美がつきまとう)
友人ですごく美的感覚の優れた人がいて、彼女のの審美眼や完璧に仕上げていこうとする努力にいつも感心している。その日はそんな彼女に久々にあって色々とアドバイスを貰った。
とても的確で思いやり溢れる彼女の言葉をしばしメモに取り、お店のオーナーとして作ったものを見てもらいながらそれをどんな風に人に見せていくか、見られたいか、どう扱って欲しいか。そんな風に扱ってもらうためにはまず自分の手で産み出した物をまず最初にどの様に扱うか。
それはまるで普段使っている筋肉の新たな使用方法やもしくは全く使っていない筋肉を見つけ使いこなすといったようなすごく新鮮で面白い感覚だった。
その後に久しぶりにあるお店を訪ねた。街の博物館のようなその一部屋の全ての物の配置が心地よく美しく荒々しい物と繊細な物、世界中のあらゆるもの、古き物新しい物を織り交ぜていくオーナーの才能に改めて脱帽。。体ってすぐに反応するからそこにいるだけで胸がいっぱいになってドキドキした。古いガラスケースの中では静かで美しい世界が広がっていて見ているだけで吸い込まれそうな気持ちになり束の間空間を旅した気分になった。物作りをしながら言うのもなんだけど凄く物が好きというわけではないし際立った審美眼があるわけでもない。ましてやそれをミックスしていく才能が如何せんかけていて、まあ要はバランス感覚が悪いんだろう。だから見ることによって少しでもバランス感覚を養えればなと思う。
そしてそんな美しい物達を見た後にその感覚を糧にしながら製作を進めていくと自分なりの美の落とし所がぼんやりと見えてきて益々楽しくなってくる。
だからこんなに雪が降りそうな日は手を動かしながら、このステッチはオッケー。これはあかんな。なんて小さいながらも美を追求している。
それにしても美しさってなんだろう?
あなたは何を美しいと思いますか?