去年の初秋にノマド村に行った時にすごく印象的な写真に出会った。
そこを運営されている茂木さんが撮られた一枚の写真の中では指先に掲げたマッチの炎が静かに燃えていた。
掲げた炎は誰かに捧げられたのだろうか?その手の捧げた先に何があるんだろう、誰がいるんだろう、どんな風景が広がっているんだろうと想像の海でたゆたわせて貰えるような素敵なその写真を連れて帰りたくてポストカードを購入した。
年末のある日、仕事机の前のディスプレイの変更を終えふと見ると手、手、手ばかりの世界が広がっていてそれを客観的にみてああ、手が気になってるんだな。と確認したので、今日は手の事について書いてみながら自分の心の内を少し紐解いてみよう。
若い頃から人の手を見るのが好きだった。凄く体の大きな人が意外と小さな手だったり、すごく美人さんの手が骨ばって男っぽい手だったり。ふっくらと柔らかい手の人を見るとそれだけで触ってもらいたくなったり、それが小さい子供なら思わず手を握ってみたくなる。
旦那さんと初めてあった時に今まで見たことのないくらい綺麗な白い手で少し羨ましかった。年をとってそれなりにシワや傷も増えたけど相変わらず綺麗な手で、なるほどな、絵を書く人の手なんだなと思う。
十代に好きだった男の人の手はたぶん、今までの出会いの中で一番色っぽい手だったな。今ではボンヤリとしか覚えてないけど手を見る度にその色っぽさにドキドキしていたような気がするし、その手で奏でられる楽器に軽い羨望を覚えたこともある。
とても面白く会話をしていた友人の胸の前でヒラヒラと言葉よりも雄弁に物語る手を見ているとその手がまるで一人漫談をしている様に見えてきて大爆笑したことがある。そう、彼女の指はいい具合に長くってとても美しかったな。
小さい頃はあかぎれだらけの節にシワがいっぱい入った自分の手がコンプレックスだった。
母がそんな私の手に声を掛けながらニベアクリームを塗ってくれていた時、今その光景がニベアの匂いと当時ずっと働いていた魚屋の魚の匂いが染み付いた母の手のガサガサとした手触りが同時にやってきて鼻の奥がつんとした。
クリームを塗っても塗ってもガサガサで切れ切れで節がぱっくりと空いて血が滲んでいた手は思春期の自分にとってコンプレックスで随分長い間人に見られないようにコソコソ隠していたような気がする。今はやっと年齢と見た目があってきて流石に隠すことなんてないんだけど綺麗なラインストーンがいっぱいついた輝く指先を持ったお姉さん達の横に革針で何回も傷が付いてボロボロに皮がめくれた指先を出すことはやっぱり恥ずかしくって、なぜか軽い言い訳をしたくなる。
そんな事を思う反面、私の中で一番の働き者の手が誇らしかったり愛おしかったりする。
同時にその人それぞれの働きがギュッと詰まった手を見るとたまらなく嬉しくなったり時には深淵な気持ちを持ったりもする。
最後には一番大好きなこの手の絵を。本当に一番好きな手の絵です。
調べている時にこの手の絵が産まれたいきさつを始めて知り、この絵がなぜこんなにも胸にくるのかやっとわかりました。
アルブレヒト ドューラ
祈りの手